散策の楽しみ方

馬込文士村案内 掲示板

JR大森駅西口から散策するルートと、都営地下鉄浅草線の西馬込駅から散策ルートがあり駅前に「馬込文士村案内」という大きな掲示板が設置されている。JR大森駅西口から池上通りを渡ると天祖神社があり、階段の壁面には馬込文士村の住人のレリーフがあり、歴史を一目にして学ぶことができる。 また、西馬込駅と並びの商店街入口には「馬込文士村商店街」の標識が雰囲気を盛り上げ、散策コースののっけから坂道とあって、川端茅舎の句〈鶯のこだまの九十九谷かな〉もさもありなんと頷かせる。近くに川端龍子記念館に通じる桜並木があり、毎年春の花見時ともなれば、「馬込文士村大桜まつり」が盛大に行なわれている。そのうえ辛党には銘酒「馬込文士村」、甘党には銘菓「文士村饅頭」などもあって、演出効果は満点。商店街から臼田坂上に出る坂の途中に区立郷土博物館がある。

館前に「文士村案内図」があり、館内には「文士村コーナー」があって、作家の遺品や自筆原稿などが展示されている。 散策の季節には室生犀星尾﨑士郎など文士村作家の特別展もある。

受付には『馬込文士村ガイドブック』が廉価で売られているから、春秋の散策シーズンにはここを訪れるグループは多い。

ところで先の「馬込文士村案内図」は、地元の〈馬込村文芸の会〉の運動が実って、文士の旧居跡の解説板と共に区によって設置されたもので、先の二つの「案内図」のほかに、JR大森駅前、山王会館など、散策の主要コースの入口に設置されている。

おかげで道に迷う人も少なくなったが、それまでこの地を訪れた人の中には、実在の村と思い込んで、「馬込文士村は何処ですか?」と尋ねる人もいたらしい。

実際は田端文士村と同じように、著名な文士たちが馬込村(現大田区馬込)に住みついていたに過ぎない。村にはお山の大将や村長がいたりして、酒とおしゃべり、麻雀とダンスに明け暮れ、はては離婚騒動から大森相撲協会まで、マスコミをにぎわす話題を残したことから名付けたもの。

では文士たちが住みついた馬込村とはどんな村なのか。
歴史的背景から言えば、宇治川の先陣争いで名を残した梶原長時の愛馬〈磨墨するすみ〉など馬の産地であるとか、太田道濯が江戸築城の候補地にしたが、九十九谷は縁起が悪いと断念したという伝説はともかく、江戸時代から続く村名で、洗足地方面を含む大きな村であったそうな。
明治5年に新橋ー横浜間の鉄道が開通し、大森停車場が新設された頃から、東京府荏原郡入新井村(現大田区山王)は東京近郊の別荘地として、大森海岸一帯は花柳街として開発されていくことになる。川端龍子、白滝幾之助、真野紀太郎小林古径などの画家が、武蔵野の面影を求めて訪れたり、住みついたのもこの頃。

尾﨑士郎 宇野千代

大森駅前の八景坂に新築された望翠楼ホテルでは、大森在住画家の木原会絵画展、大森在住文化人の大森丘の会、大森劇研会などが催された。馬込村が住宅地として開発されていくのは関東大震災以後から昭和初期。この時代から尾﨑士郎宇野千代夫妻を草分けに、文士たちが馬込に移り住むようになり、いわゆる文士村が形成されていくことになる。

 

文士・芸術家たちの交流の歴史へ→

ところで、先の「馬込文士村は何処ですか?」と聞かれて、はたと困るのは文士村のとらえ方である。
これには文士村の範疇を旧馬込村に限定し、時代を大正12年から昭和5年、あるいは昭和11年頃までとする説(近藤富枝『馬込文学地図』)。旧馬込村を中心として、その周辺部を範疇に含め、年代的には現在も活躍している文士まで含めた説(野村裕『馬込文士村の作家たち』)があり、定説はない。
ちなみに区の「馬込文士村案内図」によれば、後者の説に文化創造の担い手として、文士だけではなく芸術家をも含めた幅広い範囲でとらえられている。地域的にも馬込とその周辺の山王、中央、大森北の一部にも及んでいる。また年代的には戦後の山本有三から三島由紀夫まで、幅広くとらえられているのが特徴であろうか。

さて、馬込文士村とその周辺を散策する楽しみ方である。これまでの散策は、たいてい5人から10人の小グループか、20人から30人の大グループ。中には100人からの大部隊出もあって、何事がおきたのかと人目を驚かせることもある。せっかくの文学散歩だから、金魚のウンコみたいにつながって、ガイドの説明を聞くだけでは能がない。一人か二人でじっくり見て歩き、時には旧居跡に立って、当時の文士たちの生活に思いを馳せる瞑想的散策はいかがかな。

「歩く度に新しい発見がある」と地元の文学愛好者がいうように、文士村には奥行きの深さがある。 こうした文士の旧居跡巡りも結構だが、研究もしつくされ、文献も多いから、ちょっと視点を変えるのも面白い。文士たちと関わりの深い臼田坂の商店や土地の古老を訪ね、文士たちの生活の匂いをかぐのも一興。

たとえば、室生犀星家の特注で金沢の郷土料理(ひろず)を作っていたという「やっちゃん豆腐店」。その並びには、宇野千代が借金のため避けて通ったという「よろず屋酒店(現在はセブンイレブン)」もある。

この臼田坂周辺は、文士たちの旧居跡が点在する散策のメインコースであるが、尾﨑士郎宇野千代が愛の巣を作った頃は一面の大根畑。「あの頃は、朝の暗いうちから荷車に大根さ積んで、日本橋の大根河岸の問屋まで運んだものよ」と土地の古老は語る。

室生犀星が住む以前の万福寺周辺も麦畑だったらしい。その麦畑で若き日の詩人金子光時が森三千代とランデブーしたと自伝に書いている。戦後の高度経済成長期以前は、まだその面影を残していたから、そう遠い話ではない。
また馬込に隣接する山王界隈に出て、室生犀星の家に出入りの大工、左官、植木屋さんたちが住んでいたという、馬込銀座の探訪をしてみるのも面白い。

馬込銀座のバス停前の古書店「天誠書林」(残念ながら2008年に「天誠書林」も廃業)で、息抜きがてら古本漁りをするという手もあった。この店の棚には今は亡き山王書房主関口良雄氏の意志を受け継ぐように、文士村関係の文学書がぎっしり詰まっている。店主の和久田誠男さんは、昭和初期の相撲界改革のリーダー天竜の長男。若い頃は三島由紀夫の浪漫劇場で演出助手をし、三島亡きあと「サロメ」の演出をしたという経歴もあり、話題も豊富であった。

山王1丁目は、詩人日夏耿之介、版画家長谷川潔、画家山本鼎と詩人山本太郎親子が住んでいたところで、今も尾﨑士郎の長男俵士さんの家がある。近くの徳富蘇峰の山王草堂記念館には、孫の敬太郎さんもかつでは館長をされていたが、他界され現在は大田区文化振興協会にて管理。

また馬込と山王の境界になっている環七(旧谷中通り)の左角には、犀星が常連客だった都キネマがあって、草野心平が一時期レコード係のアルバイトをしていた。 近くの煙突掃除屋の二階で新婚生活をしていた心平の兄 天平が、風呂屋で辻潤とぱったり顔を会わせたという話など、探せばいくらでもある。

馬込文士村にこだわらず、その周辺の町を歩けばもっと面白くなる。

大森駅東口から八幡通りを大森海岸の方へ行くと左は大井三業地。竹久夢二と山田順子がマスコミの目を逃れて恋の逃避行したという砂風呂で有名。表通りの第一京浜国道沿いは、歌舞伎「鈴ヶ森」の幡随院長兵衛と白井権八にちなんだ、権八茶屋と長兵衛茶屋が並んでいたところ。さらに第二京浜国道を品川方向に行くと、旧東海道の入口に鈴ヶ森刑場跡がある。その向い側の当時海岸端だったところに、洋風の洒落たアパート「ポプラハウス」があった。尾﨑士郎宇野千代、高田保、野口富士男らが部屋を借りて執筆していたところである。そこから旧東海道の品川宿を歩くのも趣向だが、国道を戻って大森海岸に出ると、戦後占領軍の慰安所第一号となった小町園やカニ料理の悟空林。明治のむかしの伊勢源跡や、高山樗牛が執筆のため泊ったという松浅旅館など。

この道筋の旧東海道の道幅をとどめる美原通りには、享保年間創業の老舗も何軒かある。

海岸寄りの新開地も今はアパート、マンションがひしめいているが、尾﨑士郎や竹田麟太郎ら文士の足跡を残すカニ料理の沢田屋など、料亭華やかなりしころの夢の跡、さらに足をのばせば森ヶ崎。今では町丁や住宅がひしめいて昔の面影を残していなが、昔は海に面した鉱泉旅館の温泉街。大正から昭和にかけて、岩野砲鳴、永井荷風、芥川龍之介、久米正雄、十一谷義三郎、近松秋江、徳田秋声、広津和郎、丹羽文雄、尾崎一雄などの文士たちが、執筆やら一夜の清遊らで訪れた「大金」や、堺利彦、尾﨑士郎の常宿「寿々元」などが有名。共産党の森崎会議があったのも「寿々元」というよう森ヶ崎は馬込文士村に次ぐ散策コースとし見逃せないところである。

このように文士たちの足跡は、明治・大正・昭和にかけて、キネマの天地蒲田、空港の羽田、穴守、古墳の街田園調布、洗足池畔、お会式の町本門寺界隈など、大田区全域にされている。それらの文学風土を掘り起こたのが、「馬込文士村案内図」に名をとどめる染谷孝哉で、その著『大田文学地図』は唯一の案内書である。史跡も多いから、健康のためにも歩いて損はないオススメコース。

(彷書月刊 1998年7月号より)

東京南部文学ネットワーク誌季刊

「わが町あれこれ」編集長 城戸昇