龍子記念館のボランティア(事業協力員)育成講座を右のPDFのとおり開催します。希望者はFAXまたは往復はがきで申し込むことができます。
詳しくは、大田区立龍子記念館「ボランティア育成講座」係へお問合せください。 TEL/FAX: 03-3772-0680
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江戸時代、東海道の宿場町である品川と川崎の中間地点に位置する大森は、「間の宿」と呼ばれ、東海道を往来する人々が土産物として海苔や麦藁細工の玩具などを買い求め、賑わっていた。
明治9年(1876年)6月12日には、新橋と横浜を結ぶ東海道線の停車場として「大森駅」が開業。令和8年(2026年)には開業150周年を迎える。
大正元年には、山王(木原山)に外国人も宿泊可能な洋風のモダンなホテル「望翠楼ホテル」が開業。画家たちによる展覧会「木原会」が開催され、その後、大正7年(1918年)には文士を交えた「大森丘の会」へと引き継がれていった。これは文化人たちの交流の歴史の始まりである。
大正12(1923年)年9月1日に発生した関東大震災の後、馬込一帯は大きな被害を受けることなく、雑木林や坂道、麦畑などが広がる自然豊かな農村地帯であったため、東京中心部で被災した文士たちが移り住んだ。尾﨑士郎・宇野千代夫妻の呼びかけにより多くの文士が集まり、サロンを築いていった。馬込の田舎の風景の中に、当時モダンな文化住宅(赤い屋根、青い窓のバンガロー風の家、北原白秋の家など)が洋画で描かれている。
自然豊かな農村風景が広がる馬込に対して、大森山王エリアはモダンな都市文化の特性を備えた場所である。
現在の環七通りは、もともとは川であり、その谷中から西側が馬込、東側が山王に分かれていた。現在、大森駅近くの天祖神社の脇道にあるレリーフが馬込文士村の入口のように案内されているが、当時は谷中付近が馬込村への入口であった(榊山潤『馬込文士村』より)。
大森駅西口正面(現在の池上通り沿い)には、不二家レストラン、資生堂パーラー、料理屋三日月、松屋大森支店、美容院、喫茶店、眼鏡店などが建ち並び、高級でおしゃれな街並みを形成していた。室生犀星や川瀬巴水などのエッセイや記事に、これらの様子が記されている。
大正初期には、大森駅東口方面の森ケ崎・大森海岸には、尾﨑士郎などの文士たちが親しんだ鉱泉旅館、料理屋、芸妓家などの歓楽街が形成された。尾﨑によると、歓楽街というよりも湯治場的な清楚な雰囲気だったという。大森駅東口前には人力車の溜まり場があり、森ケ崎・大森海岸方面へ向かう人々を運んでいたようだ。
今回は、2月の講演会「大田の花梅をめでる」に続き、第2弾として、「大森と馬込文士村」について貴重なお話を伺うことができました。
感謝を込めて、大森倶楽部石塚理事長から、築地学芸員に花束を贈呈しました。
終了後は大森倶楽部会館にて、昼食懇親会を開催しました。
文責:大森倶楽部会員、馬込文士村ホームページ運営管理者