10/13「山本有三と馬込文士村村長吉田甲子太郎」(大田区立郷土博物館主催)を聴講して

2014年10月13日(月・祝)14時から大田区立郷土博物館にて、三鷹市山本有三記念館学芸員渡辺美知代さんによる「山本有三と馬込文士村村長吉田甲子太郎」の講演会が開催された。この日も台風19号接近であいにくの天候だったが熱心な聴講者が参集。

 

山本有三吉田甲子太郎との接点、関係性について紹介された。

 

  • 最初の出会いは大正6年、早大のドイツ語講師だった山本有三に、吉田甲子太郎が学生として師事。
  • 昭和7年に、吉田三市郎(甲子太郎の兄で明治大学の理事)の交渉で山本有三を明治大学初代の文芸科長に、山本有三が文芸科長を退任後、昭和21年から甲子太郎が科長、昭和23年には文学部部長に。
  • 昭和10年~37年にかけて刊行された、少年少女向けの教養叢書「日本小国民文庫」や、少年少女雑誌「銀河」では、山本有三が編纂、甲子太郎は編集の一員として活躍し、また昭和26年刊行の小学校の国語教科書、28年刊行の中学校の国語教科書も山本有三とともに編集に携わった。
  • 馬込文士村時代(昭和21年~昭和28年)は、山本有三は新井宿(現在大田区山王)に住んだが、参議院議員として多忙な日々だったせいか、すぐ近くの東馬込(現在大田区南馬込)に居住していた吉田甲子太郎とは行き来がなかったようだ。
  • 63歳で癌で亡くなった吉田甲子太郎の葬儀(明治大学文学部葬)では、山本有三が弔辞を読んでおり、その中で甲子太郎の功績を称えている。弔辞の全文は山本有三全集12巻(新潮社)に紹介されている。