文士・芸術家交流の歴史

明治末期~大正期(震災前)

文士村と呼ばれるほど賑やかになる以前、芸術家達の会合があちこちで開かれていました。

山王の望翠楼ホテルでは日夏耿之介小林古径川端龍子、伊藤深水、片山広子真野紀太郎、長谷川潔らは「大森丘の会」を開いていました。

日夏耿之介はメンバーを「われら大森グルッペ」と呼び、各芸術の相互影響を身をもって試した時期は後にも先にもなかったと述べています。


大正期(震災後)~昭和初期

関東大震災後、尾﨑士郎の誘いで次々と馬込に文士たちが住むようになり、居住者相互にかなり親密な交流がみられました。

馬込文士村として最盛期の時代で、酒、麻雀、ダンス、恋愛あるいは離婚とバラエティに富んだ生活を展開していた賑やかな時代です。

間宮茂輔が次のようなユニークな馬込村民分類を行っています。


●酒飲まぬ「麻雀、花ひき」グループ:広津和郎宇野千代、国木田虎雄、間宮茂輔

●酒飲み「駄弁」グループ:尾﨑士郎、保高徳蔵、榊山潤吉田甲子太郎、横山安夫

●酒飲み「ダンス」グループ:萩原朔太郎衣巻省三

●酒飲み「孤高」グループ:北原白秋室生犀星

●酒もギャンブルもやらぬ「超然組」:川端康成


昭和初期~戦前

前期、中期から引き続き住む者も多く、尾﨑士郎室生犀星倉田百三村岡花子吉田甲子太郎などは生涯をこの地で終えた人たちです。この時期、新たに加わったのは稲垣足穂小島政二郎佐藤惣之助竹村俊郎山本周五郎などです。

昭和6年山本周五郎ら馬込村居住の文士たちによって大森相撲協会が結成されました。

文士(力士)には四股名を付け番付表を作り、池上本門寺の裏手にあった空屋敷の庭に土俵をこしらえ、相撲大会を開きました。中期の退廃的なムードから徐々に落ち着きを取り戻した時代です。